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第1回目の独立国家:

第一次東トルキスタン共和国 1933-34

東トルキスタン共和国[Sherqiy Türkistan Islam  Jumhuriyiti]は、1933年から1934年まで存在した短命の国家でした。しかし、これは20世紀でウイグル人および東トルキスタンに住む他のトルコ系人々がはじめて世界に独立を宣言し、国民主体の近代国家建設を目指して成功した試みでした。 

東トルキスタン共和国は、主にウイグル人と東トルキスタンに住む他のトルコ系人々が率いる独立運動の産物であり、政府参加者と国民にはキルギスなど他のトルコ系人々も含まれています。

1934年に、首都カシュガルは漢人軍閥盛世才とソ連との連盟による軍事力、または東トルキスタンに進出してきた甘粛省出身の回族(漢語を話すイスラム教徒)軍閥の攻撃によって陥落し、1934年4月16日に第一回目の独立国家―東トルキスタン共和国は崩壊しました。この歴史事件は10年後、第2回目の独立国家―東トルキスタン共和国の樹立に勇気と自信を与えました。以来、20世紀で東トルキスタンに誕生したこの二つの独立国家は、独立した東トルキスタン共和国の再建を目指す現代ウイグル人および他のトルコ系人々の独立運動に影響を与え続け、最大な原動力となっています。

第一次東トルキスタン共和国(ETR)の起源

ETR は East Turkistan Republicつまり、東トルキスタン共和国の略称です。

19世紀末、ウイグル人および東トルキスタンに住むトルコ系人々は自分の教育水準を高めるために、先頭に立ったジャディディスト(改革者)が新式学校を設立し、科学技術、数学、歴史、言語を学習する新式教育制度を導入しました。ジャディディズムは、教育が個人と国家両方の進歩を促進するツールであると強調しました。したがって、1920年代初頭まで東トルキスタンにおいて知的刺激を受けた国民はさらに目を覚まし、国民のアイデンティティの確立を一層促進しました。

満州清王朝は崩壊してから、東トルキスタンは漢人旧官僚の支配下に落ちました。漢人支配者は漢人主導の植民地政策を始め、漢人役人が地元のウイグル人役人に取って代わり、抑制政策と弾圧を通じて、独裁支配を強めました。まさに、今現在、中国共産党は取った民族浄化政策の第一段階として、東トルキスタンでのイスラム信者のメッカ巡礼禁止、モスクの出入り制限、毎日の礼拝制限などが、一世紀前の漢人独裁者の手段となんら変わっていません。

ムハンマド・エミン・ブグラ率いるホータン革命家、1932

1930年、クムル(ハミ、哈蜜)王であるシャー・メクシュートの死後、漢人軍閥金樹仁は清王朝が冊封した原住民王族の王政を廃止し、ウイグル人から略奪した土地を甘粛省からきた漢人入植者に与え、逆に砂漠周辺の不毛な土地にウイグル人を移住させました。金樹仁はウイグル人に対する人種差別、宗教弾圧、経済的詐取を強行した結果、経済の衰退、社会矛盾の激化、人種間・宗教間の紛争を一気に表面化させました。1931年2月にクムルのホジャ・ニヤズウルムチで蜂起し、あっという間に反乱は東トルキスタン全域に広がりました。

1932年、ウイグル知識人サビット・アブドゥルバキ・ダモラは、インドから東トルキスタンに戻り、ホータンの裕福なブグラ家を説得して、漢人軍閥の独裁支配を断ち切るために、立ち上がりました。彼ら有志者は一緒に民族革命委員会を立ち上げ、1933年2月までに、ホータンとその周辺地域にいる漢人官僚らを一掃しました。1933年2月20日に、彼らは暫定的にホータン政府を樹立し、サビット・アブドゥルバキ・ダモラ氏が首相、ムハンマド・エミン・ブグラ氏が軍司令官に就任しました。 1933年の春に、ホータン政府はカシュガルに事務局を設立し、同地域の独立志向のあるウイグル人やキルギス人指導者との繋がりを築きました。

1933年9月、東トルキスタン独立議会が正式に成立し、カシュガルにあるスウェーデン宣教出版社から印刷された『東トルキスタン自由新聞』と、科学、政治、国家、文学などの内容に関連する隔週刊雑誌『独立』(Istiqlal)を発行しました。1933年10月までに、独立国家東トルキスタン共和国を宣言するための準備は整いました。 サビット・アブドゥルバキ・ダモラ氏は、クムルの反乱指導者ホジャ・ニヤズに、新共和国の大統領就任を要請する手紙を送りました。

第一次東トルキスタン共和国(ETR)の構成

カシュガルの最初の東トルキスタン共和国の独立宣言– 1933年11月12日

1933年11月12日、カシュガルのトゥメン川のほとりに約7,000人の軍隊を含む2万以上の人が集まり、独立国家東トルキスタンのイスラム共和国の成立を正式に宣言しました。 白い星と三日月を組み合わせた青い国旗が公開され、国歌が公布されまた合唱されました。 その場で、サビット・アブドゥルバキ・ダモラ氏が首相に任命されたことが宣布されました。続いて、サビット・アブドゥルバキ・ダモラ氏はホジャ・ニヤズ氏が共和国大統領に任命された決定を発表しました(当時本人不在)。 30条項から制定した憲法が発布され、大臣9人から構成する内閣も成立しました。

東トルキスタン共和国憲法は、イスラム教を国教として承認し、宗教の自由も保証しました。 共和国の指導者らは、特に教育、衛生・健康、経済改革に重点を置き、近代化発展を目指しました。

サビット・アブドゥルバキ・ダモラ首相(S)が最初のETRを宣言-1933年11月12日

  • 第一次東トルキスタン共和国指導者:
  • 大統領–ホジャ・ニヤズ
  • 首相–サビット・アブドゥルバキ・ダモラ・
  • 副首相–ジャニベク
  • 首席秘書長官–アレム・アホン
  • 国防相–マフムット・ムヒティ将軍
  • 内務大臣–セイザデ・ユヌス・ベック
  • 外務大臣–カシムジャン・ハジ
  • 教育大臣– アブドケリムハン・メヘソム
  • 法務大臣–ゼリフカン・ハジ
  • 財務大臣–アリアクン・ベイ
  • 農業大臣–アブルヘセン・ハジ
  • 寄贈大臣–シェムセディン・トゥルディ
  • 厚生大臣–ウベイドラ・ベイ

東トルキスタン共和国は宣言後、カシムジャン・ハジ外相がペシャーワル経由でアンカラに電報を打ち、東トルキスタン共和国名義でトルコに公式文書を送りました。東トルキスタン政府は、各国の国家元首に手紙を送り、ソ連、アフガニスタン、スウェーデン、イラン、トルコ、英属インドに使者を送ることで、国家承認と国際支援を求めました。 アフガニスタンでは、使節団はモハメッド・ザヒル・シャー国王とサルダール・モハマド・ハシム・カーン首相と面会しましたが、彼らは中立を表明しました。しかし、武器を売り、アフガニスタン義勇兵を東トルキスタンに送りました。 ソビエト連邦はソビエト支配下にある西トルキスタンに反乱が広がることと、東トルキスタンがソビエト政権と戦うトルコ系バスマチの反政府勢力の避難所になる可能性を恐れ、東トルキスタン共和国を拒否しました。

第一次東トルキスタン共和国は、議会と各省庁を統括する内閣政府、常備軍、国民に通貨やパスポートを発行する機能など、近代国家の必須要素のすべてを有していました。

1934年1月13日、1500人以上の部隊を率いるホジャ・ニヤズは、トルファン出身の著名なウイグル人軍事指導者マフムット・ムヒティ少将と共にカシュガルに到着し、大統領に就任しました。その後、マフムット・ムヒティ将軍はサビット・アブドゥルバキ・ダモラ首相の発令で、東トルキスタン共和国防衛大臣に任命されました。

第一次東トルキスタン共和国が発行したパスポート

ホジャ・ニヤズ大統領は、「1912年の中国民国憲法は孫文の民族の独立、民権の伸張、民生の安定という3原則に基づいて人々の自由意思を尊重し、すべての人々に自決権を与えると記載している。故に東トルキスタン国民議会が東トルキスタンの国民意識に基づいた独立宣言を貴政府に再度通知します。・・・」という主旨の手紙を中国国民党南京政府に送りました。

ホジャ・ニヤズ大統領– 1934年1月

ホジャ・ニヤズ大統領は、第一次東トルキスタン共和国の5原則を以下のように述べました。

1.「新疆」はすべて東トルキスタン共和国の一部であり、それに属していない移民はすべて出身地に戻る必要があります。

2.政府と当地経済は、当地の人々によって管理されます。

3.東トルキスタンに住むすべての抑圧されてきた人々は、教育、商業に携わり、新しい国家を建設する自由を持っています。

4.共和国大統領ホジャ・ニヤズは、国民の幸福を実現する政府建設に専念します。

5.共和国各省庁が、現代社会に追いつくために自分の管轄で懸命に努力します。 

第一次東トルキスタン共和国(ETR)の崩壊

ソビエト政権は様々な理由で、東トルキスタン共和国、国民党回族軍閥馬忠英(第36師団長)と親ソの漢人軍閥盛世才との三者間紛争に介入しました。 ソビエト政権は1934年1月24日に2つの赤軍旅団(約7,000人)を派遣し、東トルキスタン北部に侵攻し、盛世才の東トルキスタン支配を支援しました。

1934年1月下旬、馬忠英の部下馬福元が率いる回族軍が東トルキスタン共和国に進攻しました。東トルキスタン共和国軍は激しい応戦をしたが、敗戦となりました。1934年2月6日、東トルキスタン共和国政府はカシュガルから撤退を余儀なくされ、サビット・アブドゥルバキ・ダモラ首相と政府官僚らがイェンギサル(Yengi Hissar)に退避しました。マフムット・ムヒティ国防大臣が陸軍の大部分と共にアトシ(Atush)に撤退しました。中華民国第36師団長に任命された馬忠英はカシュガルを占拠しました。

後に、馬忠英は暴走し、英国駐カシュガル領事館館員数人とウイグル人約8,000人を惨殺しました。東トルキスタン共和国政府は駐ホータン部隊に救援を求めました。援軍は1934年3月初旬にヤルケントに到着した

マフムット・ムヒティ将軍とその部下

ホジャ・ニヤズ大統領は、ソ連邦(現在のキルギスタン)との国境町イルケシュタムに撤退したが、ソビエト軍に捕らえられました。 ソビエト政権は、ホジャ・ニヤズに東トルキスタン共和国と国軍を解散する協定に署名を強要しました。

1934年3月1日、イェンギサルにいる内閣首相サビット・アブドゥルバキ・ダモラはホジャ・ニヤズ大統領のソビエトとの合意通知を受け取りました。 翌日、首相は特別内閣会議を招集し、その場で合意を拒否し、ホジャ・ニヤズ大統領を国家反逆者だと公にしました。

サビット・アブドゥルバキ・ダモラ首相と第一次東トルキスタン共和国内閣メンバー

3月に回族軍は、イェンギサル包囲を開始し、1934年4月16日にイェンギサルは陥落しました。1934年4月16日、第一次東トルキスタン共和国は崩壊しましたが、7月末まで東トルキスタン共和国の称号を使って戦いを続ける人もいました。一方、ホジャ・ニヤズはアットシュのサビット・ダモラ・アブドゥルバキ首相と内閣メンバーのほとんどを捕らえ、盛世才に引き渡しました。

1934年末までに、漢人軍閥盛世才は東トルキスタンの大部分を支配下におさめました。盛世才は、ソビエトの要請に応じてホジャ・ニヤズに「生涯の総督」という名誉を与え、また省政府副主席に任命し、「新疆省政府」を改組しました。ホジャ・ニヤズは新しい地位に就くことを余儀なくされ、自分の軍隊を離れ、権力を失い、ウルムチに赴任しました。マフムット・ムヒティはカシュガル地域の軍司令官でしたが、盛世才によって軍副司令官に降格されました。彼はカシュガルとアットシュに拠点を置く、主にウイグル人で構成された

第6師団の指揮権を温存されました。

盛世才は、独裁支配を維持するために、各地で起きた反乱・蜂起を残酷に鎮圧してきました。また回族軍閥を自分の政府に組み込み、彼らを東トルキスタン各地で起きたウイグル人などのトルコ系人々の反乱を鎮圧するために利用してきました。たとえば、回族軍は、1935年に東トルキスタン南部チャキリク(Charkilik)県で漢人支配に対して起きた有名な「チャキリク反乱」を鎮圧し、ウイグル人反乱指導者とその家族ら100人以上を惨殺しました。

東トルキスタンの歴史に照らしてみれば、21世紀に入り漢人共産党官僚陳全国は、同じように東トルキスタンを警察国家に変え、特にウイグル人をターゲットにして、2回の東トルキスタン共和国と少しでもつながりがある人であれば、共産党政権に些細な不満があれば、当然直ちに逮捕、監禁、死刑の対象にしました。もっと酷いのは、今陳全国はウイグル人全体を敵視し、数百万人を「再教育収容所」に閉じ込め、洗脳、拷問、強姦、侮辱、臓器狩りなどを行ってきた悪行が金樹人、盛世才と同じ血脈を受け継いでいるとしか言えません。

マフムット・ムヒティ将軍は、カシュガルで盛世才に対する反乱を組織したが、1937年4月にインドに撤退をせざるを得なく、後に日本に向かった。東京でマフムット・ムヒティ将軍一行は直接日本帝国政府に働きかけ、東トルキスタンの独立に対する支援を求めました。

1937年5月下旬、アトシに駐屯したキチクアホンとアブドゥル・ニヤズ将軍の部下は蜂起後、カシュガルを解放して、独立政府を樹立しました。1937年8月に、盛世才部隊は、ソ連赤軍の装甲部隊と空中支援を後ろ盾にして5,000人の兵力を投入したが、鎮圧できませんでした。

1937年9月15日にアブドゥル・ニヤズ将軍が殺害されました。1937年10月15日、ソ連赤軍がホータンにいる反乱軍を空爆して、死傷者が2,000人以上に達し、反乱が鎮圧されました。

盛世才は、カシュガルのウイグル人が反乱を起こした直後、1937年4月にホジャ・ニヤズを逮捕し、1938年に約120人の部下と一緒に処刑しました。

アブドゥル・ニヤズ将軍とその部下 (1937)

第一次東トルキスタン共和国は、1884年の満州清帝国の征服以来、ウイグル人や東トルキスタンの他のトルコ系の人々が独立を宣言し、現代共和国を樹立した最初の成功した試みでした。主要指導者の反逆、漢人軍閥の圧政、国民党政権の乱入、ソ連の連続介入、および国際的な支援の欠如により、第一次東トルキスタン共和国は約6ヶ月間しか存在せず短命でした。しかし、東トルキスタンの人々は独立を獲得するために、奮闘し続ける自信と原動力を獲得しました。

1944年11月12日に第一次東トルキスタン共和国が樹立してからまる11年後に、ウイグル人、カザフ人、キルギス人、ウズベク人、タタール人らは、同じ旗の下に集合し、力を合わせ、再び独立を獲得し、第2次東トルキスタン共和国を樹立しました。

第1と第2の東トルキスタン独立国家は、今日も東トルキスタン人の独立志向に刺激を与え、闘争の道を照らしてくれています。