ウイグルについて

 

歴史上の著名なウイグル人/トルコ人の学者、芸術家、先駆者の油絵

ウイグルとは

遺伝学的研究によると、ウイグル人は中央アジアに住んでいた先住民族の印欧人種とチュルク人種の子孫であることが示されています。 十分な人口調査が行われていないため、ほとんどのウイグル人及び東トルキスタンの海外組織は、ウイグル人の人口を世界で約3000万〜3500万人に及ぶと推定しています。

祖国は占領され、中国の植民地により、数十万人のウイグル人は祖国から逃げ出し、最初は近くの中央アジア諸国、中東、トルコ、そして最近ではヨ-ロッパと北アメリカに避難と定住を求めました。公式には、中央アジア各国に在住するウイグル人が50万人以上に上ると言われています。しかし、ウイグル人活動家や東トルキスタン人の離散者グループは、中央アジアに少なくともウイグル人が100万人暮らしていて、ウズベキスタン人口の約25%がウイグル人と血縁が深いと主張しています。トルコ副首相のBulent Aricによると、2010年の時点でトルコにはウイグル人が30万人以上住んでいたが、他の人は約10万人と推定しています。さらに、2013年にサウジアラビア労働省は、王国にトルキスタン人(ほとんどはウイグル人と考えられる)が約5万人住んでいると公表しています。公式の国勢調査は行われていませんが、ヨーロッパにはウイグル人が5万人以上住んでおり、主にドイツ、オランダ、ノルウェイ、フランスに住んでいます。また、北アメリカ(主に米国やカナダ)に在住するウイグル人は約2万人に上ると推定されています。

ウイグル人の大部分はイスラム教徒であり、中央アジアやトルコの同胞と同様に、イスラム教スンニ派における5つの主要な思想学派の中で最も古く、最もリベラルなハナフィ学派を擁護します。イスラム教スーフィー派を支持する信者も多くいます。中央アジアには仏教、キリスト教、シャーマニズムを信仰する小さなウイグル人集団も存在します。近年、中国政府は急ピッチで東トルキスタンにおいてウイグル人に対する残忍な弾圧と虐殺政策を行ってきました。その反人類的な非行を正当化するために、ウイグル人に「宗教的過激主義者」というレッテルをはりました。実際、ウイグル人の殆どが、世俗的で、寛容的で、平和を愛し、人類を愛する穏健的なイスラム信者である事実を誰も抹殺できません。

ウイグル語は、文化的多方面から殆どトルコ語を起源とされていますが、ペルシャの文化影響と言語要素も加わり、ユニークなウイグル文化を形成しています。 ウイグル語は、東部チュルク語またはチャガタイチュルク語の影響を受け、チュルク語族の中で最も古い言語の1つです。東トルキスタンのウイグル人はアラビア文字を使って文章を書きますが、中央アジアのウイグル人の大半はキリル文字表記を使用します。世界に離散したウイグル人はアラビア文字とラテン文字の両方を使用します。また、伝統的なウイグル文字は13世紀にジンギス・カンに採用されてから、モンゴル人以外は、カルムイク、満州人、シボ人も使用してきました。

ウイグルの歴史的背景

ウイグル・カガンに敬意を表す唐王朝の大使(756 CE)

ウイグル人は中央アジアで最も古い民族で、6000年以上の歴史を有します。 ウイグルという用語は「統一」または「同盟」を意味します。6世紀、ウイグルは中央アジアに住み着いたさまざまなトルコ系部族および印欧系部族からなる強力な政治連合体の一員として世界歴史の舞台に登場します。 現代ウイグル人は、中央アジアのトルコ人やタリム盆地の印欧系部族との融合です。2008年に行われた遺伝子研究によると、タリム盆地のフン族・トルコ系部族・印欧系部族における最初の融合は、2920年前から始まりました。この事実は明らかに「ウイグル人が8世紀にモンゴルに由来した」という中国共産党の疑わしい主張を覆してしまいました。

何千年もの間、東トルキスタンはウイグルの故郷である事実は、古代印欧系・トルコ系・ウイグル人などの王国の遺跡、古代各時代のミイラ出土、および他の様々な考古学的証拠によって実証されました。ウイグルの歴史家トゥルグン・アルマス氏は、ウイグル人が6400年以上の歴史を有すると結論づけました。

紀元前209年頃、トルコ系のフン族(匈奴)が先住民族である印欧部族と混ざり合って古代ウイグルの故郷を支配しました。紀元前104年頃、漢王朝はシルクロードを支配するためにタリム盆地に遠征を始めるが、タリム盆地の一部を占拠できたのは西暦60年になってからで、その支配は50年ぐらいしか続きませんでした。以降、トルコ人と印欧部族は、漢人を完全に追い出して、タリム盆地周辺各国を自らで支配し続けました。 6世紀、トルコ人の台頭に伴い、中央アジアは印欧系部族とトルコ系部族に支配されるようになりました。ウイグル人は、遊牧国家突厥(552-744)、ウイグル帝国(744-840)、甘州ウイグル王国(848-1036)、および西ウイグル王国(別名天山ウイグル王国856-1335)、そしてカラ・ハン王朝(840-1212)の主役を担ったのが違いないでしょう。 ウイグル人はモンゴル帝国(1206-1328)の管理においても重要な役割を果たし、ジンギス・カンは彼の広大な帝国を統治するためにウイグルヤサ法システムとその台本を採用したと考えられています。

ウイグル人は、カラ・ハン王朝時代に、仏教、マニ教、ネストリアキリスト教、シャーマニズムの信仰から、15世紀まで徐々にイスラム教に改宗しました。

18世紀には、ウイグル人は政治的、社会的、文化的、経済的な面で衰退し、国内の権力闘争とスーフィズムの台頭により弱体化しました。 1759年、東トルキスタンは満州清王朝に侵攻され、植民地となりました。以降、ウイグル人は満州清王朝の支配に対して42回蜂起し、1863年に満州人をすべて追いだし、カシュガリア(東トルキスタン)国を設立しました。 しかし、後に中央アジアにおける英露の覇権争い(グレートゲーム)が激化を増し、巻き込まれた東トルキスタンは、再び清王朝に侵入されました。その結果、ウイグル人は再び祖国を失い、東トルキスタンは「新疆」省と名付けられ、1884年に正式に満州帝国に編入されました。「新疆」は中国語では「新しい領土」を意味します。

 

1899年の米国財務省地図には、東トルキスタンを「中国の領土」として示しています。

1911年の満州清王朝の崩壊に伴い、東トルキスタンの大部分は、清王朝の元役人の独裁支配下にあったが、一部は独立したウイグル族/トルコ系支配者によって統治されました。1920年代までに、ウイグル人の間でナショナリズムが形になり始め、ウイグル人の政治運動が展開され、独立への欲求と推進力が高まりました。

1931年、ウイグル人はクムルで反乱を起こし、1933年11月12日、ホータン、トルファン、カシュガル、クチャ、アクス、クムルなどの地域を代表するウイグル人指導者たちが1つの旗の下で団結し、独立国家東トルキスタン共和国の樹立を宣言しました。 しかし、数ヶ月にわたり、中華民国(国民党)の回族(中国人イスラム教徒)部隊の侵犯、当地の漢人軍閥の鎮圧、スターリンの命令を受けたソビエト赤軍の介入によって、東トルキスタン共和国は1934年4月16日に転覆されました。第一次共和国は短命でしたが、その遺産を受け継いだウイグル人、カザフ人、キルギス人、タタール人などのトルコ系の人達が、1944年11月12日に2番目の東トルキスタン共和国(ETR)の設立を宣言した。

1933年の東トルキスタン共和国設立当時のウイグル兵士

2番目の東トルキスタン共和国は、組織的にはるかに強力でした。しかし、第2次世界大戦が終息すると、スターリンは中華民国がモンゴル独立を承認すれば、東トルキスタンの独立を支援しないという条件で国民党政府と秘密交渉を交わしました。さらに、スターリンが満州特権・北方4島の占領を認可できれば、満州に出兵できるという条件で、ヤルタ会議で米国、英国と秘密協定を結びました。その結果、米・英・ソ連などの大国が、東トルキスタンを当事者不在のまま、勝手に、でたらめに中国領に入れてしまいました。

一方、1949年8月、スターリンはETRの大統領、総理大臣、国防大臣、内務大臣など主要指導者にソ連機に乗り、ソ連経由で北京に向かって「中国政治協商委員会の会議」で中国共産党との政治交渉に参加ようと押し付けました。しかし、搭乗機はソ連に入った後、消息を絶ちました。何日後、中国共産党政府は「悪天候のため、飛行機は墜落し、交渉代表全員が死亡した」と公表しました。

実際、ソ連崩壊後の90年代に公表されたKGBの秘密公文書と当事者の証言によると、北京会議参加ということ自体はスターリンの毛沢東との陰謀で、指導者全員を殺害することが目的でした。したがって、全員はモスクワにあるニコライ2世の馬小屋で処刑されました。

他方、1949年9月までに、スターリンは毛沢東の軍隊を東トルキスタンに空輸し、ETRを無力化し、ウイグル人を中国共産党の占領下に治めました。 1949年11月22日にETRは公式に解体され、共産主義の中ソ連合でウイグル人は再度自分の独立国家を失いました。以降、我が祖国は正式に中国の植民地と化して、中国共産党はウイグル人に対する抑圧を今日まで続けています。

ウイグルの現状

毛沢東は当初、ウイグル人に真の自決権と独立権を与え、または連邦参加の共和国地位(ソビエト連邦のような)の選択を約束していたが、彼はその約束を破り、1955年にいわゆる「新疆ウイグル自治区」を設立しました。 中国共産党政権は、「新疆」の「近代化発展をさせる」という見え透いた口実を盾にして、毎年数十万以上の漢人を移住させ、当時現地人口の6%を占めった漢人は飛躍に増えました。さらに、1958年に毛沢東は大規模な集団化プログラムを開始しました。これにより、先住民・ウイグル人の慣習や伝統が蔑視され、中国語学習や中国文化への同化は強要されました。

文化大革命の間、中国共産党は「反革命的かつ民族主義者」というレッテルをウイグル人にはり、数十万人を虐殺しました。 また、ウイグル人や東トルキスタンの歴史を改竄し、現実を歪め、「新疆(東トルキスタン)は古代からずっと中国の一部である」といううそのプロパガンダを繰り返します。最も恐ろしいのが中国共産党は東トルキスタンの土地で核実験を46回も実施し、結局約75万人が死亡しました。生育制限政策により、ウイグル人が数百万人殺されています。 しかし、何十年にわたり、ウイグル人は中国共産党の支配に抵抗をし続け、蜂起とデモも絶えませんでした。

1989年、アフガニスタンに侵入したソ連軍が敗北後、1990年4月5日に一部のウイグル人は武装蜂起を開始したが、これは無惨に鎮圧されました。しかし、1991年に中央アジアの同胞がソ連から独立したため、ウイグル人は再び独立の機運が高まりました。国際社会との貿易関係の発展により、中国共産党はウイグルの分離独立の前兆を打ち砕くために、中央アジアおよび世界中で経済的優位性を主張し始めました。 9/11事件を利用し、中国共産党は独自の「テロとの戦い」という理由で、ウイグル人の生きる権利を守るためのあらゆる形の抵抗を許しませんでした。 最終的に、中国は「テロリズムと過激主義と戦う」という口実を使い、ウイグル語教育を禁止し、宗教や文化的慣行を制限・弾圧する一方、土地を奪い、漢民族の入植者の大規模流入に道を開きました。

長年にわたり、中国共産党による抑圧政策は益々強化されたため、ウイグル人は耐えなくなって、2009年に東トルキスタン全域でデモが勃発し、中国共産党の植民地政策に抗議しました。 国際社会が沈黙していたため、平和的なデモ進行にもかかわらず、数千人ではないとしても数百人のウイグル人が惨殺され、残酷に鎮圧されました。さらに数万人は未だに行方不明です。 

2014年、中国共産党は「テロ活動厳打(厳格な取り締まり)キャンペーン」を開始し、広範な地域監視を強化しました。また、東トルキスタンに実施している徹底した植民地化政策と残虐な民族浄化政策を正当化するために、分離主義、過激主義、テロリズムの「三悪」との戦いを行うべきと主張しました。 中国共産党は個々人を標的にするのではなく、ウイグル人全体を公然と標的にし、「テロリスト」と「分離主義者」、「反逆者」扱いに分類しました。

2016年初頭、東トルキスタン全域に何百ものいわゆる「再教育」強制収容所が建設されました。 東トルキスタン国民覚醒運動に啓発された米国在住のウイグル人は、米国政府と国民の支援を呼びかけるために毎週デモを行い、米国議会にウイグル政策法を可決するよう働きかけました。 国際社会が注目を集め始めたのは2018年の夏になってからです。

2018年7月末、マイク・ペンス副大統領はワシントンDCで行われた宗教的自由を促進する大会で、中国のウイグル人に対する人権弾圧を非難しました。

2018年8月、国連人種差別撤廃委員会では、中国の人権状況がテーマに取り上げられ、「100万人以上がいわゆる反極端思想センターに監禁され、さらに200万人がいわゆる「再教育キャンプ」に強制収容されたと推定している」と述べられました。 東トルキスタンの状況は2019年までに更に悪化しており、衛星画像を分析したところ、中国共産党が当地域で強制収容所と監獄を急ピッチで建設し、その数と規模が想像以上に拡大されているという結果が示されました。 2019年5月、米国国防省のアジア太平洋担当次官補は、中国がおそらく300万人のウイグル人やその他のトルコ系人を強制収容所に収容していると明言しました。

強制収容所(中国が後からその存在を認めた「再教育施設」)の内部写真

2019年7月、米国国務長官マイク・ポンペオは、ウイグル人に対する中国の扱いを「世紀の汚点」と言い切りました。最初は中国共産党はキャンプの存在を否定していたが、隠すことできなくなり、後にそれは「職業訓練センター」と言い換えました。

多数の報告によると、ウイグル人及びカザフ人、キルギス人、ウズベク人、タタール人などのトルコ系収容者は、政治的・文化的教化、強制投薬、強制不妊、強姦、臓器狩り、死亡までさらされてきました。2019年10月、Radio Free Asiaは6か月の間、1つの収容所から少なくとも150人の死者が出たと報告しました。 キャンプの外では、ウイグル人や他のトルコ系の人人は人工知能装置によって昼夜監視されるだけでなく、また知らない漢人を「親戚」と認めさせて、ウイグル人家庭に毎月、毎週何日か定期に滞在させ、無理やり共同生活をするように強いられています。他方、両親が収容されたため、何十万人もの子供が家族から引き離され、路頭に彷徨って子供は少なくないです。しかし、注目すべき点は、中国共産党政府はどういう意図で3,600万人を超える人々のDNAおよび生体データを強制収集していることです。 中国共産党は2019年の国防戦略を「東トルキスタンの国再建を阻止する」ことを戦略的目標に設定しました。ニューヨークタイムズの報道から、漏洩した中国政府の内部文書には、中国共産党指導者はウイグル人を「慈悲なし」に抑圧するよう命令した事実は明らかになりました。 この現実は、離散したウイグル人乃至他の東トルキスタン人の絶対多数を「東トルキスタンの独立は自分の生き残る唯一な道」だと深刻的に徹底的に認識させました。残念ながら、ホロコーストを「二度と繰り返させない」と誓った国、政府、政党、政治家、国民を含む国際社会のほとんどは21世紀に起きっている中国共産党の反人類的な植民地主義と民族浄化を黙って見ているだけです。